久しぶりに本業とも呼べるシゴトに取り組める機会があって、前向きに過ごせる先週だったんですが、早速いい感触をいただけてるようです。

改めて感じたのはやっぱり餅は餅屋ってんですかね、
似た様なジャンルにノウハウの応用が利くところはあるけれど、やっぱアウトプットのスピードとアイデアの量が何倍も違うな~と実感。「好き」っていうその度合いが自分自身の中でめちゃくちゃ顕著に現れたところを感じて、もっとこの種のシゴトを増やそうって思いました。

その他のジャンルでも、なにかしらカタチにするにはするんですけどね。
アイデア量はもちろん、経験の面からもどうしても他意をはね除ける様なものにはならずにいて、結局中庸な、中途半端なものばかりになってしまうところがあって。

自分自身、対象に対してそこまでのこだわりをまとえていない分をアウトプットに影響させてしまっているのがいただけないんですが、それでも「好き」の原動力の凄まじさには畏れ入りました。いや~、これなんで忘れてたんだろ。。。

そういう機会に巡り会える事こそがとてもステキなことなんですが、ちょっと今回は突っ走れる分突っ走って、結果残してみようかなと思ってます。

それが連鎖すると、この先面白いんだけどなー☆
ま、多くを求めず、まずは目の前にあるそれを丁寧に作り上げたいと思ってます:)

頑張るを楽しめるって素晴らしいことだぜ、コンチクショウ!
敵を作るつもりは無いんですが、捉え方の問題かな、僕はそう考えているということで認識してほしいです。

「この前、ジャニーズのコンサートに嫁と行って、女子の勢いに圧倒されてきたんよ。」
続けざまに彼はこう言います。
「ただ、ステージというかエンタテインメント性については完成されているよね。あれは凄い。」

これ、行った事の無い人には分からない事かもしれないけど、僕も高校の頃なぜか流れてきたSMAPのコンサートチケットで現場に参加して、同じ感覚を受けました。
「エンタテインメント」として完成されている。見せるだけでなく魅せる事を本当に熟知した団体がジャニーズなんだろうなと理解して以来、変にそれをやっかんだり、「ジャニーズなんて。」と小バカにしたりをしなくなりました。

魅せられる人がそこには確かにいて、でも逆には「人が創造するもので、人を煽動する事は可能である」ことを裏付ける光景だなとも、振り返れば思う訳です。

かのディズニーも同じ手法をとっていて、ウォルトディズニーカンパニーはご存知の様に徹底する世界観の構築。エンタテインメントを飛び越えた「とある世界」を、映画というバイアスを通じて作り上げ、客をランドへ誘導する仕組みを作っている。
それであるから、最初の根っこにあたる映画を「必ず成功させる」という必要性が生まれて、それに対しての注力を惜しまない環境が出来上がる。

ただ、それもすべて「人が作り上げた世界」であって、自然と成り立ったものではない「人の意図を汲んだ観点」を流布しているだけに過ぎないんですよね。
その反響、結果が、ご存知の強烈なブランディングの傘下にいる、人、人、人なわけです。


遠回りな言い方をしてしまっているんだけど、人の信仰する宗教って、結果を見ればそれらと同じステージにあるように思えるんですよね。
神格化されるそれもすべて、「人の作り上げたもの」と、そうである可能性を考えれば、相応の価値にしかなり得ない。特に新興宗教なんてすっとぼけた集団に、人知を超えたものなどというのはとても手前勝手なことの様に思えます。受け手側のココロを私欲のために弄ぶ姿勢にはガマンがならない。

そういう観点からは、確実に無宗教を立ち位置として保持してしまうことになるんだけど、人間としては「ココロの拠り所」は必要なもの・・・ですよね。

弱いときや辛い時に、なにか支えになるものを携えておくのは人の本能的な心理作用。かならずしもそんなものまで各々独自である必要もまたないけれど、多勢な宗教に拠ることのない、なにか心安らぐものを常に持ち続けられる様、ココロの環境づくりを志すべきだな~と。

一概に積み重ねられた伝統、歴史、人々の思いををぶっ壊すつもりではないんですが、人の世界は結局人なんだよなぁとなんとなく。
そんな風に考えた日曜の午後でした。
かたや、こういう人もいる。
同じひとつのことを語ったところで、まったく正反対の主張は成り立つものなんです。

それをそれと見なすことも、他人のそれが真反対にして成立していたりすると、基本的に「それはそういうものなんだ」と思ってしまうことは、単純には手を抜いて咀嚼するのと同じこと。。。なんですかね?
むしろ「答えを自分でもたないこと、もちすぎないこと」こそが常に正答に近い立ち位置だ。。。とも言えそうです。

そう言い始めると、どっちつかずの宙ぶらりんな人間、優柔不断な人間になりがちとも思うんですけどね。世の中への迎合と、そうではないぞとの個性や主張も入り交じって人間社会は出来ていて、その中を臨機応変にウンタラカンタラ。。。

人にあわせるも、我を貫くも、物事をまぁるく、あるべきカタチ、あってほしいカタチに収めることを目的としていればそれでいいんじゃないでしょうか。

過剰だったり、軽薄だったり、人それぞれの受け方の指針はあるけれどさ。
「大切にする」って気持ちはみんな一緒なんだと思います。
新しいモノ、未知の対象がもつ可能性はとてもまぶしいものだけど、今、その手にあるそれの「視点を替えるだけで得られる可能性」は、同等、もしくはそれ以上のの価値をもってたりするものですよね。


今までを単純に納めてきたことを、ひとつ複眼的な見方をすることでガラリと変わった印象になる。既存のそれも、変化する環境も、成長する人間も。そんな価値化の取りこぼしこそは、普段生活する中での「もったいない」にあてられるべきものなんだと思います。


可能性ってのは素晴らしい響きなんです、人間には。

それを価値化するか否かは、その可能性を見出す人間にこそ委ねられているものだけど、それがとても難しい。
やみくもに飛び込むだけで価値化したと言う話は、偶然以外、あまり例をみないものだと思います。

そんな偶然にかけてみる人生も、個人的には好きな姿勢ではあるんだけれど、もう一度手を伸ばせば届く位置にあるそれを、ひっくり返したり逆さまにしたりしてみる「価値の掘削」、「本質の整理」を、この年齢、今だからこそしたいなと思う様になりました。


この土地が未だ教えてくれていないこと、周りの人たちの知らされていない顔、そして自分自身の再挑戦。
正直に構えて、真摯に取り組むことを、ずっと面倒くさがらずに生きて、あるべき表情に辿り着ければ、嬉しいんですよねぇ。

気付くということ。意外と大切な人間のフシギな機能です。

ニュースやテレビを見るたびに、「健康」だとか「美容」だとか、「年金」だとか、将来的な不安要素をネタにする作りがやたらに多いなと気付いてみます。

たしかにね。未来という「分からなさ」はひとつの人間を掻き立てる魅力として切り離せないものではあるんでしょうね。分かりきったものを手にする人は少ない。不安を含む「可能性」を含有するからこそ興味にふれ、人はそれを手にとってみるんだと思います。

それは対物でなく対人としても。自分自身に置き換えてもそうかもしれない。
先にも書いた正解探しにも通ずるのかもしれないけれど、正解を探しながらも「実は、分かりきった答えを手にすることを結果的には求めていないこと」が、落ち着いて考えてみれば見えてくると思うんですよね。

だから、今を生きるというキーワードは生まれるんだと思います。

歳くってからのために今を費やす姿勢は、先を見据えた素晴らしい視野なのかもしれないけれど、明日が分からない中でそれをどう納得させられるんだろう。
明日の献立も気にならない社会に、30年後、40年後の準備をさせるばかりの煽りをバラまいて、今を生きる事、その一番大切な事をフイにしてしまうようじゃ、今を与えてくれた人、支えてくれる人、彩ってくれている人になんか申し訳ない気持ちでいっぱいです。

雑になれだとか、考え無しを推奨するわけじゃない。見据えての準備や種まきも、その連鎖が生活を紡いでいく事には変わりないのだから、それはそれで並行的に必要な要素。

だけど、そればかりに失わされる今であるなら、それは考え直さなくてはいけない。


解の無い憶測にばかり抑圧を受ける前に、今、目の前にあるそれを最大活用する事を描く。
これも自分の口癖ですが、5年前に描けなかった今の自分がここにいてしまうことをまず認識する事。それに気付く事で、今想定する「先の自分」は、想定内に収まるものではないことが理解るはず。

今を楽しみ、今に包まれ、今を生きていく事に目を向ける。
これもまた自分へ向けた備忘録です:)