ニュースやテレビを見るたびに、「健康」だとか「美容」だとか、「年金」だとか、将来的な不安要素をネタにする作りがやたらに多いなと気付いてみます。

たしかにね。未来という「分からなさ」はひとつの人間を掻き立てる魅力として切り離せないものではあるんでしょうね。分かりきったものを手にする人は少ない。不安を含む「可能性」を含有するからこそ興味にふれ、人はそれを手にとってみるんだと思います。

それは対物でなく対人としても。自分自身に置き換えてもそうかもしれない。
先にも書いた正解探しにも通ずるのかもしれないけれど、正解を探しながらも「実は、分かりきった答えを手にすることを結果的には求めていないこと」が、落ち着いて考えてみれば見えてくると思うんですよね。

だから、今を生きるというキーワードは生まれるんだと思います。

歳くってからのために今を費やす姿勢は、先を見据えた素晴らしい視野なのかもしれないけれど、明日が分からない中でそれをどう納得させられるんだろう。
明日の献立も気にならない社会に、30年後、40年後の準備をさせるばかりの煽りをバラまいて、今を生きる事、その一番大切な事をフイにしてしまうようじゃ、今を与えてくれた人、支えてくれる人、彩ってくれている人になんか申し訳ない気持ちでいっぱいです。

雑になれだとか、考え無しを推奨するわけじゃない。見据えての準備や種まきも、その連鎖が生活を紡いでいく事には変わりないのだから、それはそれで並行的に必要な要素。

だけど、そればかりに失わされる今であるなら、それは考え直さなくてはいけない。


解の無い憶測にばかり抑圧を受ける前に、今、目の前にあるそれを最大活用する事を描く。
これも自分の口癖ですが、5年前に描けなかった今の自分がここにいてしまうことをまず認識する事。それに気付く事で、今想定する「先の自分」は、想定内に収まるものではないことが理解るはず。

今を楽しみ、今に包まれ、今を生きていく事に目を向ける。
これもまた自分へ向けた備忘録です:)