敵を作るつもりは無いんですが、捉え方の問題かな、僕はそう考えているということで認識してほしいです。

「この前、ジャニーズのコンサートに嫁と行って、女子の勢いに圧倒されてきたんよ。」
続けざまに彼はこう言います。
「ただ、ステージというかエンタテインメント性については完成されているよね。あれは凄い。」

これ、行った事の無い人には分からない事かもしれないけど、僕も高校の頃なぜか流れてきたSMAPのコンサートチケットで現場に参加して、同じ感覚を受けました。
「エンタテインメント」として完成されている。見せるだけでなく魅せる事を本当に熟知した団体がジャニーズなんだろうなと理解して以来、変にそれをやっかんだり、「ジャニーズなんて。」と小バカにしたりをしなくなりました。

魅せられる人がそこには確かにいて、でも逆には「人が創造するもので、人を煽動する事は可能である」ことを裏付ける光景だなとも、振り返れば思う訳です。

かのディズニーも同じ手法をとっていて、ウォルトディズニーカンパニーはご存知の様に徹底する世界観の構築。エンタテインメントを飛び越えた「とある世界」を、映画というバイアスを通じて作り上げ、客をランドへ誘導する仕組みを作っている。
それであるから、最初の根っこにあたる映画を「必ず成功させる」という必要性が生まれて、それに対しての注力を惜しまない環境が出来上がる。

ただ、それもすべて「人が作り上げた世界」であって、自然と成り立ったものではない「人の意図を汲んだ観点」を流布しているだけに過ぎないんですよね。
その反響、結果が、ご存知の強烈なブランディングの傘下にいる、人、人、人なわけです。


遠回りな言い方をしてしまっているんだけど、人の信仰する宗教って、結果を見ればそれらと同じステージにあるように思えるんですよね。
神格化されるそれもすべて、「人の作り上げたもの」と、そうである可能性を考えれば、相応の価値にしかなり得ない。特に新興宗教なんてすっとぼけた集団に、人知を超えたものなどというのはとても手前勝手なことの様に思えます。受け手側のココロを私欲のために弄ぶ姿勢にはガマンがならない。

そういう観点からは、確実に無宗教を立ち位置として保持してしまうことになるんだけど、人間としては「ココロの拠り所」は必要なもの・・・ですよね。

弱いときや辛い時に、なにか支えになるものを携えておくのは人の本能的な心理作用。かならずしもそんなものまで各々独自である必要もまたないけれど、多勢な宗教に拠ることのない、なにか心安らぐものを常に持ち続けられる様、ココロの環境づくりを志すべきだな~と。

一概に積み重ねられた伝統、歴史、人々の思いををぶっ壊すつもりではないんですが、人の世界は結局人なんだよなぁとなんとなく。
そんな風に考えた日曜の午後でした。