例えば、下記のことを同一人物が言ったとします。

1.「M.ダグラスと友達なんだよね。よく飯連れてくよ。」
2.「弁当?あ、いつも自分で作ってきてます。」
3.「ゴメン!明日返すから、500円だけ貸してくれない?」

3が真実で、1,2がウソだった場合。
これしょーもないです。ただの虚言癖。大概のことは信じる要素に繋がらないものなので、普段なら気も止めないことも結局ウソで、唖然とするか、諦めるか。ま、500円も当然貸せません。


2が真実で、1,3がウソだった場合。
少し忘れっぽく、冗談も一様に嗜む人間といったところですかね。例が「弁当」を扱うだけに、あまり敵を作らなそう。


1が真実で、2,3がウソだった場合。
なんだか見上げてしまいます。別に他のウソなんてどーでもいいくらいに、えらい違う世界の人だなと思っちゃいますよね。そのひとつの真実のせいで少し高慢に見られるかもしれないけれど。


例が即席なのでちょっとニュアンスが的確とは少し言いづらいとは思うんですが、「ひとつの真実、そしてウソ。それぞれの大きさ如何では、その他のウソをどのようにも変容させてしまうもの」なんでしょうね。

ずっとウソばかりと扱ってきた対象が、突如同等の真実を生成したところで、それまでのウソは一瞬で真実味をおびるじゃないですか?逆にそれまでを真実としてきた対象が、同等のひとつのウソを混じらせてしまうだけで、それまでの真実をすべて疑わざるを得ない。
ただ、すべてでなく、その大きさ次第では上記の様に受け取られ方がまったく異なるものだと思うんですよね。

そのカテゴリの内訳に「バカ正直」がいて、「善人」がいて、「要領よし」がいて、「偽善者」がいて、「虚言癖」がいて、「人でなし」がいるんだと思うんです。
結局の人の印象や人間性をカタチづくるところって、本質的にはそこにあるんじゃないかなーと漠然と考えてました。

どのような真実とどのようなウソを携えるかで人間はほぼ決まる。
今、手の中にあるその事象をそういった側面から切り取って整理してみると、多分にして理想の自分を作り上げることが出来るんだと思います。

人を知る上では、そういう学問を立ち上げてみるのも面白いと思うんですけどね。